4.対立を生む正義の刃〜マナー意識の変容
ここ数年、SNS上ではルール違反やマナーの欠如を指摘する、いわゆる「晒し上げ」の投稿が日常化している。自転車、自動車、あるいは歩行者——。ドラレコ映像やスマートフォンのカメラが捉えた「身勝手な振る舞い」は、瞬く間に拡散され、見知らぬ人々の怒りに火をつける。
実際、警察庁の統計(2024年発表)によると、自転車の交通違反に対する指導警告件数は高止まりしており、2026年からは反則金制度(いわゆる青切符)の運用も本格化した。社会全体が「ルール遵守」に対して、かつてないほど敏感になっているのは間違いない。
しかし、その影で深刻化しているのが、道路を利用する者同士の過激な「相互監視」である。
拡散される「不寛容」
自転車利用者による車への批判、あるいはドライバーによる自転車の挙動への糾弾。かつては個人の不快感で終わっていた出来事が、今や「証拠映像」とともに公の場に放り出される。さらに複雑なのは、同じ自転車乗り同士でも「あのような乗り方がサイクリスト全体のイメージを悪くする」と、身内を厳しく排除しようとする動きが目立つことだ。
「自分たちはルールを守っている」
「ルールを守れない人間は走る資格がない」
「こういう一部の者のせいで、我々まで白い目で見られる」
こうした主張は、一見すると「正しい」ものである。自転車の楽しさを知り、その社会的地位を守りたいという純粋な気持ちから出た言葉だろう。しかし、その「正義感」がひとたびネットに放たれると、当事者の意図を超えた巨大な感情のうねりとなり、結果として新たな対立と、不特定多数を巻き込んだ炎上を招いてしまうのである。
「正義」という名の快楽に陥っていないか
ここで私たちが一度立ち止まって考えるべきは、なぜこれほどまでに「良い人」が「悪い人」を執拗に糾弾してしまうのか、という点だ。
脳科学や心理学の世界では、他人の不正を正す行為によって脳内にドーパミンが放出され、一種の快楽を伴うことが指摘されている。これがいわゆる「社会的制裁の快感」である。しかし、私たちが「正義」の剣を振るうとき、相手の背景を想像する余地は往々にして失われがちだ。
その人は、単にルールの詳細を知らなかっただけではないか。
これまでの教育や周知活動が、その人に届いていなかっただけではないか。
伝え方さえ違えば、良き理解者になり得たのではないか。
道路を使う者同士がルールという言葉を盾に、互いにカメラを向け合い、監視し合う。こうした「善と悪」だけで切り分けられた世界は、あまりに窮屈で、殺伐としている。
糾弾よりも「建設的な対話」を
当然ながら、交通ルールの遵守は絶対的な前提である。しかし、誰かを晒し上げ、排除したところで、安全な交通環境が手に入るわけではない。対立は何も生み出さないどころか、自転車という乗り物に対する「敷居の高さ」や「不自由さ」を世間に強調する結果に終わってしまう。
ルールやマナーを理解できていない人に、どうすればその価値を伝えられるのか。相手を「正す対象」としてではなく、「共に道路を共有するパートナー」として捉え直し、行動すること。その微かな歩み寄りのほうが、終わりのない批判合戦よりも、はるかに建設的で豊かな未来へと繋がっているはずだ。
blackynakajima 2026.2.10 update