9.自転車が「社会」を変えるツールになるために
これまでの章を通じて、環境のデザイン、指導者の関わり方、そしてコミュニティの在り方について論じてきた。最後に、私たちがこの活動を通じて、最終的に子どもたちをどこへ導こうとしているのか、その「到達点(ビジョン)」を明確にしておきたい。
「自律したサイクリスト」の定義
私たちが育てたいのは、単に自転車の操作に長けた子どもではない。公道という予測不能な要素が混在するカオスの中で、「自分の命を自分で守り、かつ他者と共存できる人間」である。
その定義は、以下の三本の柱から成る。
1.リスクを管理する力 (Risk Management)
単に「危ないから避ける」のではない。リスクを正しく見積もり、
自分の技量で安全に越えられるかどうかを主体的に判断できる力である。
2.他者を想像する力 (Empathy)
歩行者、自動車、他の自転車。自分以外の「誰か」の動きを想像し、
譲り合い、無言のコミュニケーションを取れる力である。
3.楽しさを発見する力 (Enjoyment)
移動そのものを喜び、自分の住む街や自然の美しさを、
自転車というフィルターを通して再発見できる感性である。
これらを兼ね備えた子どもたちが街に溢れたとき、その社会は間違いなく「安全で豊かな場所」へと変貌を遂げる。
競争から「共創」へ
かつて、自転車は速さを競うスポーツとしての側面が強調されがちであった。しかし、これからの成熟した社会に必要なのは、速さではなく「優しさ」と「賢さ」である。
ウィーラースクールが目指すのは、トップレーサーを育てることではない(それはあくまで結果として生まれる副産物に過ぎない)。本質的な目的は、自転車を通じて「社会の構成員としての自覚」を持った市民を育てることにある。
順位を競うのではなく、「どうすれば皆で安全に走れるか」を共に考える。
相手を出し抜くのではなく、相手の意図を汲み取る能力を磨く。
このマインドセットの転換こそが、殺伐とした相互監視の社会を脱し、成熟した交通社会へと至る唯一の道である。
未来へのバトン:文化の循環を目指して
20年前、ベルギーから持ち帰った小さな種は、いま日本各地で芽吹き始めている。しかし、理想とする景色への道のりは、まだ半ばである。
私たちが描く未来はこうだ。 今、スクールに通う子どもたちが大人になったとき、「あの自転車教室での原体験が、今の自分の生き方に繋がっている」と笑って語り合えること。そして彼らが次の世代の面倒を見、あるいは親となって自分の子どもの手を引き、再びこの場所に帰ってくること。
この「文化の循環」が確立されたときこそ、ウィーラースクールは真の完成を迎える。
私たちは、その果てしないリレーの、最初のバトンパスを担っているに過ぎない。
答えは、机上の教室の中にはない。子どもたちと共に悩み、笑い、ペダルを回し続けたその先にしかない。
私たちはこれからも、子どもたちの未来という名の公道を、共に走り続けていく。
blackynakajima 2026.2.10 update

