3.対立を生む今のマナー意識
ここ数年、ネット上にルール違反やマナーの悪い自転車や車などの写真や動画が、いわゆる晒し上げという形で拡散する事例が増えている。例えば自転車利用者から車に対しての批判的な映像であったり、車やバイクからは自転車の挙動に関して、公の場で見かけたルール違反などは、いとも簡単にネットに拡散される。
それぞれが自分たち以外の交通手段に対する反感、反論を、動画などを使って公に批判しはじめたのだが、さらにややこしいことに、自転車乗り同士でも、そうした相手を批判する投稿が散見される。その大部分は炎上し、時には社会問題にまで発展する。
その主張は概ね次のような感じである。
〜われわれはちゃんと交通ルールを守り、マナーよく走っている〜
〜こういう人間のせいで自転車乗りが悪く見られる〜
〜ルールも守れないやつはダメだ〜
なるほど、言いたいことはわからないでもない。 自分たちは自転車に乗る価値を知っているからこそ、その環境を守りたいという気持ちは理解できる。そこに何も考えずにルールを守ることのできないサイクリストや他の交通手段を使う人を見たときの、その人達の失望感たるや想像に難くない。サイクリストという立場を他のものに置き換えても同じく。行為自体を批判する意味も含め、ネット上に晒すし批判するという流れだ。そしてその批判がまた別の批判を生み、その感情のうねりは、いつしか当事者たちの手を離れて新たな対立を生み出し、最終的に不特定多数を巻き込んでの炎上となる。
こうした状況を見るといつも思うのが、なぜこうも簡単に「良い人」が「悪い人」を糾弾するという構図になってしまうのか。
当然、ルールは守らないといけないのは前提だ。しかし、ルールを守れなかった、マナーがあまり良くなかった人が、実はそのルールをあまりよく理解していなかったとしたら…。つまりこれまで誰にもその意味を伝えられていなかったとしたら。いや、その伝え方自体が効果が薄く、しっかり伝わっていないことが原因なのだとしたら。
同じサイクリスト、同じ道路を使う人たち同士が、ルール遵守という言葉に縛られ、常に互いを監視しあい、対立する様子は、正直見ていてあまり気持ちの良いものではない。すべてがそうだとは言わないが、こうしたそれぞれの正義感、正当感が生み出すのは、世の中の善と悪のみで切り分けた、ある意味窮屈な世界ではないだろうか。このような相手への批判に始まる対立は、結果なにも生み出さない。
ルールやマナーを知らない人、理解できていない人に、どうすれば理解してもらえるのか。
そう考え行動するほうが、対立よりはるかに建設的ではないかと考える。